昭和48年10月12日 朝の御理解
御理解 第45節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはすぞ。」
今朝私は御祈念中に、数字の1000というあのう数字を頂いた。そしてどう言う事だろうかと思うたら一という所が段々消えてなくなって行く所を頂いた。そしたら、後に残ったのは0ばっかり。と言う事になるですね。例えば千なら千と書いて、1000とこうなるわけでしょう。そういう御心眼を頂いて、その一という字が薄くなってこう消えて行く所こうを頂いた、そすと後に残るのは、何にもないと言う事になる。
0と言う事になる。一があるからこそ千でもあり、又は万でもあると言う事になるのですね。そうでしょう。どう言う事であろうかと私はそれは思わして頂いたら、四十五節を今日頂くんです。四十五節の今日はどこを頂くのかと思うて、人間は身代ができたり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる。先生と言われるようになると、頭をさげる事を忘れると、すると今日ここんところに焦点を置いて、聞いて頂きたいと思う。ですから、まずは皆さんがね。
身代が出来又は先生と言われることはまあ人格も段々出来てと言う事でしょう。まあいうならば、あのうおかげを受けると言う事だと思う、いうなら、様々の難儀の中から、病身の者は健康になり、経済で不如意否な生活をしておった者は、いわば経済の面でおかげを頂きね、お金も言わば段々たまって。いうならばなら、億万長者にもならしてもらおうと、福岡の三代、吉木辰次郎先生はいつも仰っておられた。ここに参って来ておる信奉者全部が億万長者にならりゃん。
その事をお願いしよるというておられました。お互い一つ、本当にあのー億万長者のおかげを頂きたいですね。信心しておればね、お金はいらんとか、地位はいらんとか、名誉はいらんとかいう事はないです。やはりいうならば、地位も名誉も、その自分がね、その地位を得るために、名誉を得るために、あらゆる手段を使うてでもというのは、これはもう、名誉欲ですからいけません。
例えばなら、我情我欲をしてお金をためて人の例えば持っておる茶碗でも叩き落としからでも、その自分が儲かりさえすれば良いというのではいけません。もう、どこまでも言うならば信心のおかげをもって、億万長者になる。だからこりゃ今日のこの億万長者になるということは、経済だけの事じゃないです。一切の難儀から解脱して、それから解放されておかげを頂くという意味なんですよね、ですからまずは頂かなければいけないと言う事です。まずおかげを頂かねばいけない。
だからそのおかげを頂いた、例えばものに対して、折角頂いたおかげであるから、落とすような事があってはならないぞと教えておられる御教えだと思うですね此の御教えは。だからまずは頂かねはなりませんね。そこんところにどういう修行させて頂くかというと、世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというようなふうに教えておられる。三宝様とはここでは、下に穀物の意と括弧していれてあります。
私はそれを三宝様ということは、まあ大切なものと頂いておる。おかげを頂いて行くためには、どうでもここんところを大切にしなければ、そういうおかげになってこないという事です。ね。そこで、そういう頂き方に徹しする生き方をここでは、御事柄として受けて行けと、御物として受けて行けと、成り行きをいよいよ大事に尊ばして頂けというふうに、聞いて頂いとるですね、皆さんに。三宝様とはそれなんです。
だからその、おかげを下さろうとする働きが、私共の肉眼で見る世界では、困った事とか、哀しい事だとかに見えるのです。それは肉眼で見るからです。人間心で見るからです。それを心眼、いわゆる心の眼をもって、するならば、又は神心をもってそれを感ずるならば、神様はこのようにしてまで、おかげを下さろうとしておることがわかるから、その悲しいでもいうなら、難儀な事であっても、有難とうございますという御礼になってくるわけなんです。ね。
三宝様とはそういうおかげを頂くための大切ないうならば、材料なのです。その材料をです、その三宝様を踏みつけるような事をするそれをね、自分だけが難儀なこと、自分だけが難儀な思いをしておるというような、例えば頂き方であっては、それを下さっておる神様の側からいうならば、本当にいつまでたってもわからん氏子じゃということになるのじゃないでしょうか。
だから、まずはこういう大事な事を徹底して頂こうと姿勢をつくる事なんです。そこに絶対、身代が出来たり、先生と言われたりするようなおかげに必ずなってくるです。身代、いうなら億万長者になれる、皆んなが。皆んなが、例えばなら地位も名誉も神様の方かから、向こうの方から与えられてくるようになってくる。先生と言われるということは、そういうふうに頂いたらよいでしょう。
名誉なことじゃや、地位も段々上がって行く。それは人物が出来るから、そのならお道でいう信心の人物が出来るということは、いうなら一切のものを尊ばしてもらう、いうならば起きてくるすべての事を実意をもって大切にしていく。そこの所をおろそかにしておって、どんなに素晴らしいおかげの頂けれるチャンスを与えられてもそのチャンスは、いつも向こうの方から放れていくです。ですから、まずは三宝様踏むなと言う所をです、本当に身につけなければいけません。
そこから身代が出来たり、先生と言われるような地位も生まれてくる。ことに難儀をしない、所謂幸せの条件というものが段々足ろうてくる。だかそういうふうに今度はおかげを頂いたらですよ、そういうおかげを受けてです、先生とか身代が出来たりするとです、そう言われるよになると、頭を下げる事を忘れる。ですから今日の御理解はここからなのです。そういうおかげをまずは頂かにゃいかん。まずはそういうおかげの頂けれる修行を本気で身につけなければいけないとね。
それが私は一ということだと思うんですね。例えていうと、難儀ななら問題をですよ、例えばそれは大変尊いこと、または尊いものであるものをです、おろそかにせずに頂くという事は、自分というものが空しゅうならなければ、頂ける事じゃありませんよね。それが0なんです。我情我欲があったんではです、損するともうク-ッとする。人が腹の立つよな事を言うと、もう、かんかんになって腹を立てる、ちょいと何か言われるともう悲しゅうて悲しゅうてこたえん。
これではおかげにならんね。そういう場合自分という者は段々こう、自分というものが空しうなってくるその空しゅうなってくるその、空しゅうなってくるこの、0が段々段々数を多くしていく。十よりも百、百よりも千、千よりも万というようにです。この0が段々多くなって行く。自分と言う空しゅうする生き方、そこんところがです、そういう生き方にならないと、すべての事を実意をもって、大切にするという事にならないし、御事柄として受けておるということにもならないし。
成り行きを大事に尊んでおるという事にならないのです。そういう修行の中からですなら信心の言うなら徳というか、おかげの量というものは、0を一つ多くして行くたんびんに百から千、千から万になっ行くわけんなんです。またそういうおかげを頂いて、ははあ、こういう生き方で行きさえすればもうおかげが頂けるぞと、一という基本が出来ておるですね。三宝様を踏むような事があってはならない。いやその三宝様こそ、尊ばねばならない。大事にせなければならない。
その三宝様ということは、人間がおかげを頂いていくことのための、お徳を頂いて行く事のためのすべての材料だということ。だからそういう一つの基本というのが出来、そういう一つが出来るというものが、一ということだとこう思うんです。ね。所が成程そういう生き方をさして頂いておる中にです、段々身代も出来て来た地位も名誉も出来てきた。人からは先生といわれるようになり、何不自由ない様なおかげを頂くようになるとです、所謂そこからですね。
頭を下げることを忘れるように忘れてくるわけなんです。私は思うんですけれども、ですからそうやっぱり慢心が出るくらいなおかげをまず頂かねばならない。そしてもう出ろうとすると、あこれではいけないとおさえるような、おかげを頂きたいと思うですね。本当に自分の信心は大したものだな、こういうおかげを頂けるようになったと。だからそういう思うただけじゃいかん。
ああいけんいけん、こう言う事思いよったらね、天で頭を打つような事になると、またそこから改めて、地を低うせねばおられない内容を作っていくことだとね。だからそのへんのところが大変難しいところ。福岡の姪の浜の教会のお話しをよう、吉木先生話がなさっとられました。ある記念祭に何十俵という沢山のお米のお供えがあった。大祭が終わってしもうて、御神前に出て、お礼を申し上げ、御霊様でも又お礼申されておられた。福岡教会のお弟子さんなんです。
そしてその大祭が終わった後にです、本当に自分のような難儀苦労もしたけれども自分もおかげ頂いたものじゃあるなあ、これだけのお米を御神前に積む程しのおかげを頂いたと思われた、その瞬間にです、初代吉木栄蔵先生のお声でね、「唐津にいくぞ」とお声を頂かれたそうです。はっと思うた時にはもう遅かったと言う。ね。それこそまあいうならば、初代の吉木栄蔵先生のお徳でこの様なおかげを頂ける様になった、唯お礼だけで良かったんだけども、自分も大した事になってきたこっちゃある。
是だけの、それこそ御神前を埋め尽くすような、お供えが出来るようになったこと云う事は、有難いと言えばまあ有難いことじゃあるなあと思うた瞬間じゃった。唐津に行くぞ、とおっしゃった、まあーそれから唐津が大変御ヒレイを受けられたという事でございます。それからは姪の浜も今までのようにはなくなったというお話しを聞いたことがあるがです。やっぱりそういうおかげも一辺頂いて見たいです。ね。
そしてです、そこに間髪をそのー入れずに、入れるその前に気付かせてもらう、大したおかげ頂くようになったもんだなあと思うてしもうたらいかん。まあ大したくらいは思うたっちゃよかろうがそこの先が、おかげで先代のおかげで、師匠のおかげで、神様のおかげで、こういうおかげが頂けてと言う、その辺のところがまあいうならば、人間の味わいでもあると思うですね。
だからそういうおかげの世界にあってです、本当に勿体ないことだなあと、思えれる信心を身につけて行かんならんもんですから、その前の例えば、そこまでおかげを頂く前に、三宝様踏むなというところが、しっかり出来ておらねばいけないと言う事になります。そしてやはり身代も出来、人から先生ともいわれる程しのおかげを頂いて、それから先をここには頭を天で頭を打つことはこわいと言う事を。
いうならばそういう事になります時に、今日私が御心眼で頂いた、一の字が段々薄うなってくるのと言うのじゃないでしょうか。だから薄うなってくる時に、はっと気がつけば良いのですけれども、消えてしもうてから気がついたんなどう言う事になりますかね。折角の1000がその1がなくなったらどういう事になりますか。何もない、いわゆる元の木阿弥という事になるのじゃないでしょうか。
それは虚端な話なんですけど、極端から極端な話しなければお互いが、ピンと来ないのですね。私か申しますことは、極端な話なんですけれども、それと一の字が段々薄うなって行きよる事に気がつかない。そして、なら、消えてしもうた時には、又元の木阿弥になっておるのじのではいけないでしょう。ね。本当におかげを頂いて、お徳を受けたい。そしてその、お徳を受けるということが私共が三宝様を踏まない。
三宝様を大事にすると言う所からです、所謂その心の眼が開けると言うわけですね。所がその折角心の眼が開けかけてくると、慢心を出すから心の眼が又潰れてしまう。所謂眼がつぶれると、三宝様踏むと眼が潰れるとこう仰っておられる。折角開けかかった心眼がまた、元の肉眼に戻っていまうと言う様な事ではつまらない話です。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり、手を振り上げたりする事はないがと、所謂自然に薄くなってくるのである、中々気がつかんちゅううね。
油断をするな、慢心が出るとおかげを取りはずすぞと言う事。取りはずしてしもうてからでは、後の祭りと言う事になるのですから、まあ何というても本気で、合楽で御信心なさる方達に、これはもう、徹底して言いたいことは、福岡の吉木先生じゃないけれども、合楽の信奉者全部が、億万長者になって頂きたいと思うです。これはもう全てのお金とか、物だけの事ではない。
人間の幸せの条件のすべてが足ろうてくる程しのおかげを頂いて貰いたい、こう受けてもらいたい。その為には徹底してです、合楽の根性とでも申しましょうか。御事柄としての受け方ね、成り行きを尊ばせてもろうてという生き方、そういうものをです、まずは身につけてさせて頂かねばなりません。そこん所を、いつまでたっても行ったり来たりしておることでは駄目だと、徹底したそういった信心姿勢を作らせて貰って、身代も出来、又は先生とも言われる程しのおかげを頂いてです。
先生ということは人格又は、地位や名誉と言う事にもでしょう、そしてその上にです、愈々慢心が出る様な事があってはならない。天は手を振り上げたり、叩いたりすることはないけれどもと仰るのはね、そういう慢心が出て来ると神様はお気付けを下さって、今日私が頂いた一の字が段々薄うなって消えてしまう事になると、また元の木阿弥の0になって行く様な事があってはならないと言う事をです、この四十五節では説いておられると思いますですね。
どうぞ。